㈱大之木ダイモ代表取締役社長 大之木小兵衛 氏

AI講演文字起こし:大野木ダイモ氏

本当に私のようなものに過分なるご紹介をいただきまして、先生ありがとうございます。
本当にどうしようかと思いました。
今ご案内いただきました大野木でございます。
今から1時間、今1時40分ですので、2時40分までお時間をいただいております。
一生懸命お話をさせていただこうと思います。
先般。こちらの塾長の高藤先生からですね。
お前ちょっと今回うちの会に来て話してみろと言われまして。
これは私の一つの試練なんだろうなと思ってですね。今日は伺わせていただきました次第でございます。
今日のお話なんですけれどもこちらのようにですね。
4つのお話をご用意させていただきました。
第一話:戦艦大和について
まず一つ目戦艦大和2つ目幸運館。
第二話:駆逐艦雪風について
と書いてあります駆逐艦雪風そして3つ。
第三話:特攻隊に関する体験
目が私の祖父が長男だったんですがその5番目の五男坊が特攻隊でした生き残って帰ってきた。
その大叔父が実体験した特攻隊部隊のお話最後に。
第四話:澎湃館とその思い
弊社の一事業部でございます澎湃館と読むんですがこちらのお話をさせていただいて終わらせていただこうと思いますので何卒よろしくお願いいたしますありがとうございます。
分かったとそりゃいいとじゃあお前誰なんだということでですね。ちょっと自己紹介をさせていただきます。これは僕の赤ちゃんの時の写真なんですがまあケッタイな名前でですね今まで60年生きてきて小兵衛という名前の方3名お見受けしましたお会いしたことはないです。
すべからくおじいさんでしたで大体ですね小兵衛っていうのは皆さん春秋でらっしゃるからご存知でしょう。
歴史の舞台でも結構いらっしゃるそれからですね。
左翼の方でしたけど法政大学の総長で大内小兵衛さんという方は大変有名で引っ張られたりしたんですけども小兵衛っていうのはですね西郷隆盛の一番一番下の弟さんが西郷小兵衛ってご存知ですか陸軍の偉い人を習いましたね。
ちょっと大体まともに読んでもらえません小兵衛小兵衛だったんですが、じゃあどうしてこんな名前つけたのか。
ただ単に父が古風の名前がつけたかったから大変な迷惑を私こもりまして、大体小学校の低学年は毎日です泣かされて帰ってました。
母が強い人間でもう亡くなりましたがあんた泣くんじゃったらやり返ししんじゃいやーよう言われてたんですが泣いて帰って変な名前ですもんね。
これはもう格好の標的になってたと思います。
今年61に9月になります呉で生まれ呉で育ち、そして後出ますが大学から東京に行きまして、就職もお前帰ってくる必要ないってなんか取締役会で決まったからお前はのー必要ないんじゃと言われてラッキーって僕はもう帰りたくなかったんです。
で僕飛行機が好き今日はの大叔父実は僕すごく影響を受けまして、ゼロ戦の図鑑ばっかり読んでた男なので。
飛行機が大好きだったので日本航空に行きたかった。
まず大学の学生部はお前絶対通らないって言われてたんですが、なんか知らないご縁があって日本航空に勤めててもう骨を詰める気でいたんですが、ちょっといろいろあって4年間働いて呉に帰って現在株式会社大之木ダイモっていう会社の社長をさせていただいて今年で13年目、私で4世代目、代でいくと7人目かな、の社長になります。
おかげさまでですね、皆様のおかげで弊社、今年で105年目を迎えさせていただきます。
古いだけの会社と言われないように切磋琢磨していかなければなりませんが。
さて皆さん、これ何の写真かお分かりでしょうか。
こんなことねえ。
知ってるよ、大和だろうと。
戦艦大和は呉で作られたのはご存知だと思います。
これ私の知ってる人がですね、色付けてくれて、すごいですね今の。
こんなに、水兵さんとかがですね、ここ見えますか、後ろの方。
ここ、この、これ小屋ですわな、打ち合わせの。
いかに大和でかかったかっていうのがお分かりになると思いますが、なんでじゃあこの写真見せたのか実はですね皆さん。
弊社は戦艦大和の艦長室と司令長官室の床の地域材を納入して貼らせていただいたんです。
私はこのことを大変誇りに思っているんですが、このエピソード一つとってもうちの会社がいかに古い会社かというのがお分かりいただけるかと思います。
私は小学校に入ってすぐに剣道を始めました。
6年間卒業するまで剣道を始めまして、そして呉少年合唱団というのは小学校3年生から今もございます合格いたしまして歌を歌ってました。
あれ今前で歌っているのは私なんです。
けれどもこれは6年で対談しなければいけないという掟があってですね。
6年生までやりましたその後は両親がクラシック音楽をやっていたので、やっぱりその影響がありましてブラスバンド部に入りました。あそこ金管楽器のユーフォニウムという楽器なんですけどこれを演奏していたんですね。
ありがとうございました。私が入った呉市立片山中学校っていうのはものすごく当時ブラスバンド部で有名な学校で西日本大会に広島県代表で2回私も行きましたけれども、まあ女の先生がスパルタでねもう殴る蹴るもう物は飛んでくる。
この下手くそ隣で練習してこいとか言ってそんたら上手になりますわそりゃそれでですね。
私も鍛えられてで高校に入っても勉強なんかそっちのけ毎日もうこの練習をしていたら、高校2年の時に音楽の先生から音題を受けてみないかと言われるぐらいちょっとあのやっちゃいました。
ただ僕にはやりたいことがあったんです。
それはアイスオッケーだったんですね。
あの高校1年の時にアイスオッケーを目の前で見て感動しちゃってええやまあこれ球技とも言えるんですけども球技の他にですね。
これ格闘技なのご存知ですか?
審判見てないとこで殴り合いやってますんで面白いなと思ってでもその喧嘩ばれたらペナルティなんです。
けれどでアイスオッケーやろうとみんなが言ったんです。
お前バカなこと言うなと運動もやったことないやつが、お前大学の体育会行けるわけねえじゃねえかと。
いや俺はやるんだとで音楽ずっとやってたから。
私の親戚もオーケストラやりなさいよと僕が行った大学がオーケストラで有名で小沢誠二が式を振りに来てくれるオーケストラだったのであなたバカじゃないのって?
親も言っていたんですがやめなさいって言われたら燃え上がるのが私の立ちでございまして、愛想家頑張ってたらなんと奇跡が起きて。
スケート靴も履いたこともない男がですね。
大学4年に上がる年の春からレギュラーになれまして、2ゴール4アシストという記録を残して卒業したんですが、就職してからもisok続けましたので、計8年間やっていて、社会人になってからはJalの先輩の影響を受けて、A級ライセンスを取ってカーレースもやっていたという私でございました。
失礼いたしました。
それではですね、今日の本丸に移らせていただきます。
今日のまず第1話第2話は戦艦大和と駆逐艦。
雪風のお話なんですがこれはですね。
メカニックだとか戦士の話ではなく一人の人間。
特に指揮官がどういうふうに最後まで立ち振る舞ったかっていうところに焦点を上げていきたいと思います。
まず持ってこの写真をご覧ください。
これ昭和20年4月7日大和は沈んでしまいます。14時23分と言われておりますがその1時間から1時間半前のこれ米軍機から写された写真なんですが海上自衛隊の方言わせると、これ高度だいたい300メートル400メートルという低空です。
もうこの時実は専門家が見たら分かるんですが戦艦山と右ですねだいぶ沈んでるんです。
ちょっと左側に傾きながら走ってるんですねで雪風があれこれたまたま1枚のピクチャーに収まった大変稀有な写真なんです。
けれども今日はこの2隻の話をさせていただきます。
では始めます。
時は昭和20年4月の5日になるんですがちょっとその前3月の28日に呉を出ました。戦艦大和はあの赤い丸のあたりですね。
山口県三田治療機に他の9隻の船とともに怒りを下ろしそしてありがとうございました命令の下達を待ったんです。
すると4月5日に戦艦大和の隣にですね、水上機、海面の上に着水できる飛行機でですね、東京から連合艦隊司令部の偉い人2人やってきました。
そこで命令が下達されました。
戦艦大和の大会議室、ここにですね、この方々をお迎えして、そして第二艦隊というんですが、今日のお話の主役です。
10席です。
この伊藤司令長官、最後に出てきます。
三房長、それから各官の官長、三房もですね。
だいたい20名弱が集まって話をしたんですが、大反発が起きたんです。
これは映画の1シーンにもなっているので、ああ、私知っているって思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、おさらいをしてみます。
まず向かってですね左肩が連合艦隊司令部の発言右は第二艦隊の発言といたします。じゃあまずいきます。
連合艦隊司令部はこう言ったんですね。
沖縄に突っ込んでくれっていうそういう命令だったんです。
今日も話が出ますが大王寺などをやっていたのは新風特別攻撃隊。
これは飛行機に爆弾をつけてそのまま飛行機もろとも敵艦に突っ込んでいく航空特攻ですね。これは船で特攻していくんです。
要は沖縄の海上にワンサカいるアメリカ艦隊に殴り込みをかける。
そしてもし命があればまだ命があれば砂浜に乗り上げて陸砲台となって撃ちまぐれっていう。
ただこれ専門家曰くそんなことしたら絶対戦艦大和やっていけなかったはずですって。なぜだかわかりますか。海の上だから46センチ砲をぶっぱなしても傾くだけなんです。
ドーンってところが陸でもちょっとでも重なってたらバラバラになるんですって。そんだけすごい圧力が大砲っていうのはあるんだ。ほんと馬鹿げた作戦だったっていう分析をされる方もいらっしゃいます。まあいいわ水上特攻してくれって言われたんですね。するとですね第二艦隊の参謀のある方がこういうふうにおっしゃったわけです。
ちなみにですね。今から話しするのは今から30数年前、私がいろんな方の通じてですね、7名の全国に散らばっておられた戦艦大和から生きて帰られた方々に、僕が取材に行ってビデオを撮ってとか、それから信仰が深まってとか、そういうことでお聞きした話でございます。
よって僕はその場にいなかったので真相のほどは分かりませんが、今から30数年前、僕の1.5メートルぐらい前に、その方の自宅の応接まで聞いて、時にはこうやって泣きながらテーブル叩きながら話してくださったことは、僕は絶対嘘だと思わないんですね。
それを今日はコア色真似てそっくりお話しいたします。
たまたまこの大会議室の横にいらっしゃった水兵さんだった方に今から聞いた話なんですが、ある参謀がですね、俺たちは死ぬことが嫌だって言ってるんじゃないんだと。
しかしこんな作戦では無駄死にじゃないか?
沖縄までたどり着けるわけないじゃないかって来たんですって。これどういうことかっていうともうこの時は船の時代は終わりを告げて飛行機の時代だったんですね。で第二艦隊が沖縄に着くのはいい。
けれどその時の援護機ゼロですよ。皆さんそんなの無理に決まってんじゃねえか?と言いたかったわけです。でこれに対してですね、今度連合艦隊何て言ったかっていうとですね。こう言ったんですって。
この作戦は連合艦隊最後の作戦となるかもしれないからよろしく、って言ったんだそうです。で言ったところですね。今度は第2艦隊のまた別の参謀の方が連合艦隊最後の作戦ならば、なぜこの大和に連合艦隊司令長官自らがお乗りになられて我々と共につかまないのかって来たんですよ。そうですよね最後ですもんおめこいよと。
慶応大学日吉校舎の地下の地下号で指揮取ってんじゃねえよって。
まあそういうことですわなそれ言ったらですね。今度は連合艦隊の方がのある方が真っ赤な顔して怒ったそうです。
それでこう言ったんですね。
私も一緒に沖縄へ行かせていただく。って啖呵切ったんですって。これはね。
もう本当に火の出るような議論だったらしいんですが、すると第二艦隊の駆逐艦のある艦長がある艦長がですねこう言ったんですって。
連合艦隊の水先案内なくとも我々はしっかりと沖縄へ行って立派に死んでみせる!って言ったんですって。
これね、すごいやりとりなんですがこれはですね。本当映画にもなりました実話なんですね。
でこの議論がどうやって収束したかこの時ですね。
東京から来られた連合艦隊の偉い人が久坂龍之介さんご存知の方もいらっしゃるかもしれません。剣道達人だったんですね。
あの方が最後にシーンとなって。
これ以上議論ができなくなった時に何卒1総特攻の先駆けとなっていただきたい。
つまりこの後日本本土にも上陸してくるだろう。
それらを迎え撃って1人がみんなすべからく特攻隊になるから。その見本を見せていただきたいということ。
だったんだそうです。するとね今日の同じの最後に出てくる。
伊藤長官が何をか?言わんや
だっておっしゃって決定したって言われています。これは聞こえなかったってその方おっしゃってましたけど、それはあの証言された方がいらっしゃいます。静かな低い声で何をか言わんやだそうですね。
もうこれ以上何言ってもしょうがない呆れたもんだっていう意味ですよね。
まあこういうことがあったんですが、なんと命令が明日の午後1500午後3時です。
ねに出動しなさいってなったんですよ。
それは無理です。
そこをなんとかしろ。ということでもう蜂の巣をつついたような騒ぎになって。
可燃物ってわかります。
あの燃えやすいもの。
椅子とか机とか全部をみんなでバンバンバンバン小舟に降ろしてですねで、給油したり、で、遺書書いたり、それようなのが一斉に始まったんだそうですが、その日の夜、別れの宴が始まったんですね。
今の海上自衛隊の船はアルコールはダメです。
禁止です。
でも当時の日本海軍はOKだったんですね。
で、船ごとに別れの宴がありましたが、その時、戦艦大和の士官室、あの士官と貸し官兵って部屋が別ですし、使う食器も別ですし、もう待遇がめちゃくちゃ士官は良かったんですね。その士官室で大変なことが起きたんです。多分ご存知の方も多いと思いますが、それは今日のお話の最後にとっておきます。
次の日ですね4月の6日時間守れました1500戦艦大和をはじめとする10隻の第二艦隊は三田尻を出ましてあの矢印のように文後水道を南下し始めました。でもうこの頃はすでに黄昏時になっていたそうで。でこの時はもうどの船の乗組員さんもこの作戦が生きて帰らない水上特攻であることはみんな聞かされていたようです。
でちょうどあの桜のマークございますね。ちょうどあの辺りだったということなんです。望遠双眼鏡っていうあの要は首から下げている双眼鏡じゃなくてその10倍ぐらい見えるのがステーがあって、看板からステーが伸びたとここにこんな今も会場に入れてありますニコンとかが作ってる双眼鏡なんですが、ものすごく見えますあれで見張りをしていた兵隊さんが突然大きな声で、「桜だ桜が見えるぞっ」て叫んだんだそうです。すると俺にも見せろ私も見せてくださいと館内が大騒ぎになったんだそうです。
死を前にしてこれがこの世で見る最後の桜と目に焼き付けたかったのかもしれないですね。するとちょうどその時だったそうです館内アナウンスって今も海上自衛隊あの崩壊艦というとあと今日お話しますが、にいたら聞こえてきますピータッスル何とか何とか何とか何とか言ってですね、もう簡単なことしか言いません。
例えばタッスル機関長原文見学人とかですね、来訪者とか本当にそれだけしか言わないそういうのが館内アナウンスなんですが、この時こんなアナウンスが流れたそうです。ちょっと真似しますね。
タッスル総員故郷に別れを告げよ、本艦の進路を何度方向。こういう風な言い方だったそうです。
あの船乗りはですね本艦の進路何度方向って言ったら自分の故郷がこっちだって皆さんすぐわかるそうでございます。それで本日はあの今証言したことはですねおもし名前を申し上げるお許しをいただいておりませんのでイニシャルでいきます福山に住まれていたyさんっていう方でございますが、この時15歳の少年兵だったんですけども、Yさん福山のご両親に向かって深々と礼をしていたら涙が出てきたんだそうです。
でも泣いているところを上官に見られたら、この育児なしって殴られるかなって思って一生懸命涙をこらえようとしていたら、また観音の音符が流れて艦長の次に偉い副長という人がいらっしゃるんですが副長の声だったって証言されていました。
タッスル大いに泣け、みな大いに泣け。
本当に優しい声だったんですって、さっきちょっと真似したようにですね普通艦内アナウンスっていうのはもう無感情命令伝えるだけなんです。だからこの時の艦内アナウンスはもう忘れられないって言ってYさんこの時においおい泣かれて、本当に優しい声でで、もうみんなわんわん泣いたんですってこれは男たちの大和っていう映画の中で再現されて本当にあんな感じだった。みんなバラバラの方向を向いてもう奥さんの名前を呼んだり、母さんって大きな手を振っている少年兵もいたりそれはそれはたまらなかったと言われていました。
それでは時間が早回しになります翌日ですね4月7日14時23分に戦艦大和は沈没してしまうんですが、Yさん投げ出されまして重油の海を漂流しました。海面に船が沈むとこのくらいの重油がドベーッと出てくるそうです浮かぶんですね。したがって浮かんでいる人の顔はみんな真っ黒けっけっけ誰が誰やらわからないそんな感じなんだそうですが、そうやって浮かんでいる木材にしがみついていたYさんほどなくこの直後なんですが、突然ですね空からチャッチャッチャチャチャチャチャっていろんなものが落ちてくるんだそうです。要はこれです。爆破爆裂したいろんなものが吹き上げられたのが落ちてくるんですね。で泳いでいたYさんの本当にすぐそこを泳いでいた同じぐらいの水兵さん若い水兵さんの頭にまともにそれがバッて当たった当たったと思ったら、食事が終わった後でごめんなさいね。ここまできれいに真っ二つに顔がパッとくらんだいて真っ二つになって、中からカリフラワーみたいなものが出てきた脳みそですなでズブーって沈んでいった。これですねさっき爆発して吹き上げられてきた真っ赤に焼けた大和の鉄の破片これが落ちてくるんです。
これで本当にたくさんの方が亡くなられたってYさんおっしゃってました。Yさん怖くなって本当に思わず助けてくれって叫んじゃったんだそうです。でも次の瞬間しまったと思ったと。なぜかというと自分は光栄のある海軍軍人。しかも水上特攻の一員が助けてくれなどまた上官が聞いてたら怒られる。こんな時にもそんなこと思うんですね。毎日殴られ蹴られの生活だったらしいですから。
それで言ったら見ましたらなんとよりによって後ろにですねKさんっていう校舎長が浮き輪に浮かんでたんですって・この方ねカイズルヒゲってわかります?こんなおヒゲでそのカイズルヒゲが女優でねフニャーってなってたって言われてましたが。あーしまった校舎長かーって。この方コアモテで有名な方だったんですって。それでよりによってだったら校舎長が静かに泳いでこられたんですって。
yさんの方へあー怒られるって思ったら、優しい声で真似しますね。
「落ち着いて、落ち着いて、そーらっ」て言ってですね。
自分が浮かんでいた浮き輪をyさんにバシャーって投げてくれたんですって。でびっくりしたyさんもう何も声が出なかった。
だって怒られると思うし、あのこわもての校舎長ですから、それが真逆のことをされて驚いた。
で、え、え、えって言ってたら、こうやって大きく一回うなずいて、こうしちゃったんですって。
ほーら、もう大丈夫だよ。お前は若いんだから。頑張って生きろって。
岩井さんは思わず、この社長ありがとうございましたって叫んだんだそうです。
一緒にしばらく泳いでいたんですけれども、そこへ今日お話しする駆逐艦の雪風が助けに来たんですねロープだとか縄梯子を使って、みんなで我先にみんな上がっていくんだそうです。
それを見たyさん、校舎長、雪風が参りましたって言ったら。
校舎長何のうなずきも何の声も出さずふってかぶりを振って大和が沈んでいった方向に泳いで行かれたんですって。この時yさんが僕の前でわんわん泣かれてですね。
どうして一緒に助かってくれんかったんかと残された身にもなってくれって。
もうあれ以来大乃木さんね、体調が悪くなるでしょ。その時に見る悪夢にね必ずk高射長が出てくるんです。ってあの時の最後の顔が出てくるんだ。なんで一緒に助かってくれなかったんだ。
もうわんわん泣かれて私ちょっともらい泣きしちゃったんです。
けれどそういうことがあったということでございますね。
それでは今日冒頭に最後の宴の時に。
大きな事件が大和の司官室であったと申しましたこれね何があったのかということなんですがその司官室にはですね司官さんしか入れない部屋なんですが2種類の司官さんがいたんです。
一つは枝島にあります海軍兵学校ここを出た超エリートバリバリの兵士官です。
なもう一つはというと今度お話しする大大叔父のように。
大学生から士官さんに救護侵害された人たちのこの2種類の士官がいた大大叔父言ってましたどうもね。
海兵での奴らとは水が合わんのだよ。なんかもうね考え方が全然違うんだと言っておりましたけれども、その人の間で口論になったんですが。それはね何がきっかけだったかというとこれなんですよみんなで酒盛りしてる。その時に学生での人のある人がおいところで、俺たちは明日何のために死ぬのかなって言ったんだそうですすると聞こえたんですよな。
海兵での人の耳に入ったんですよで怒ったんです。
国のため天皇陛下のためその他に何がある?
って言うんだって来たんですねさすが海兵ですなもう当たり前のこと聞くんじゃねえよって言ったら、今度は別の大学での人がねこう言ったんです。
いやそんなことはわかってる。それだけじゃでもダメなんだ。もっと何か意義が必要なんだって来たんだそうです。インテリですからね。彼らそういう風に言ったら海兵での人がだから大学での奴らつまらんのだ。
これ大地も言ってましたバカにするんだそうです。
やっぱり海兵出た人はだからダメなんだ。よし俺が貴様の腐った性根を叩き直してやるってなって、胸ぐらつかんで、みんながバーって立って何よってなってその時だったんです。やめるな!入ってきた人がいたんですよ。これがですね。
この方薄淵岩尾さんっておっしゃるんです。
この司官室の室長一番偉い方だったんですね。
この方が入ってきて貴様たち。明日は一緒に死ぬ身なのに何を喧嘩してるんだって言ったら。いや聞いてくださいよって。両方の意見をこうやって聞いてたらそうです。ん?貴様はどう思う?ああそうかうってん?ん?って黙って聞いていて、よし分かったみんなまあいい座れって言ってみんなを座らせてお話しされたのがこれなんですね。
ご存知の方多いと思うちょっと読ませていただきます。
進歩のないものは決して勝たない負けることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や特技にこだわって。
本当の進歩を忘れてきた破れて目覚める。
それ以外にどうして日本が救われるか?
今目覚めずしていつ救われるか?
俺たちはその扇動になるのだ。
日本の神聖に先駆けて散る。
まさに本物じゃないか。
こんな風に言って戦ってお亡くなりになった方がいらっしゃったことは、私たちは忘れてはならないのではないかと。
私は思いますちなみに皮肉なことに薄渕さんはね。
次の日12時30分の戦闘開始で初めて最初に戦艦大和に当たった爆弾で、もうあと何も残ってなかったそうです。直撃だったんです。いらっしゃった部屋にでやられたから見たこいっていう伝令の人僕も会いに行きました。
もう小野木さん何も残ってませんでした。鉄の壁に包まれた部屋ですよ。全部吹き飛んで壁もない見たらもう血もないんですって。全部吹き飛ばされてた。それでお亡くなりになってしまったんですがこれは大変有名な話なんですね。吉田光さんってやっぱり生き残られた方なんですが、が書かれた戦艦大和の最後に出てくるシーンなんですね。これも裏が取れました。本当にこれあった話だったそうですよ。
それでは雪風の話に行きましょうね。ここからはちょっと愉快な話になります。
ご覧ください。綺麗な船でしょ。なんか女性っぽいありませんか。今日はですね、なんでこの話だかというと今年終戦80年、それを記念してでしょうか、なんと8月15日にですね雪風っていう映画が封切りになるんですよ。竹内豊さん玉城博さんなどなどですね。結構これ期待できるんじゃないかなと思ってたんですが、どうしてもですね真実に近い方が好きな私はですね、ちょっとねあの脚色が入ってるらしいです。どの部分かなって思うんですけどまあそれはそれとしてですね雪風が走るらしいのでそれでもちょっと見てみてーなーって思いますから、ぜひ皆様ご覧になったらいかがでしょう。
ではなんで雪風が映画に使われるようになったかっていう話です。
あのね雪風はですね、石の駆逐艦で呉の雪風でサセボのしぐれって歌われたんです。これねどういうことか言うと、玉が当たらんのですよ。ええですか駆逐艦えっとね168隻作られたんだったかな海軍2割しか残らなかったんです。まず出撃したら戻ってこないんですよ。だから駆逐艦というのはもう本当に走る浮かぶ艦を蹴って言われてたぐらい潜水艦と同じぐらいもう死亡率高いんですね。
一発の爆弾も魚雷も当たらなかったんです。機銃装車っていうようなバリバリバリバリって飛行機から撃ってきますよ。そりゃ当たりますけども。だから昭和20年4月7日大和と一緒に突っ込んだ時も亡くなられた方6名もって言った方がいいんでしょうけど、6名亡くなられてるんですけども、でも6名だけなんですね。180人ぐらい乗ってるのに6名しか亡くなってませんし、いろんな浮かんでる人を助けて佐世保まで戻ってるんですね。
で今日はですね口雪風の話っていうよりも竹内豊さん演じるですね、この方寺内館長っていう竹内豊には全然似てませんけれども、こんな感じでしょうな顔からして寺内正道さん栃木県出身第55期海軍兵学校卒業の方でございます。ちょっと成績調べたんですがあまりよろしくなかったようですけどもそんなん関係ないんです。今からですね、寺内さんがどんなすごい指揮官だったかという話が始まります。
まずもって、雪風に着任しました。艦長としてね。
その時に新艦長のスピーチというのがあるんですって。
今も海上自衛隊、艦長が変わったら必ず着任式というのがあります。
指揮台に上がってスピーチが始まるわけなんですけども、みんな張り切っているから少なくとも15分は喋るんだそうです。
やっぱり自分のモットーとか今までのこととか喋るんだそうです。水平さん同士がねこれ手記に残ってるんです。
水平さん同士がおい貴様今日も長くなるぞ。みたいなそんなんあって言ってたんですってでそこへ寺内さんが到着し式台に上がりました。さあスピーチが始まりましたこうおっしゃったんだそうです。
私が館長に着任した寺内正道であるいいかよく聞いとけ。
私が館長である限りこの雪風は絶対に沈まるのだ。
だから諸君どうか安心して働いてくれたまえ。
以上で終わったんですって1分しかなかったって。でみんなえーってなったってね言ってましたがでみんながおい今度の館長すげーなと違うぞってなったっておっしゃってましたそういう式が残ってましたまだまだ話が続くんです。
さあ寺内官庁が着任されてお休みの日がありますね。その時寺内官庁何やってたかというとこれですよ・信じられます?一升瓶持ってね、神田はねこうやって動くんですよ。こうやってそれで偉いその士官さんとかじゃない一水兵でも、おい、貴様今時間あるか。一緒に飲もう。いけなりこっからねコップ出して一緒に飲むんですって面白いっすないいですか?
館長と一水兵って、もうさっきの体育会の話じゃないですが、4年生は神様、1年生は石とか虫って言われてたんですよ。口聞いちゃいけん、目も見ちゃいけん、言われたんですけどそんなんですよ。
ところがおい貴様話しかけられる一緒に酒飲むおいどこの出身だ。
お父上母上はお元気かみたいなね。
コミュニケーションこれすごかったらしいですわ。ひどい時には真夏の草熱い時は、ふんどし一丁で歩き回って、おい一緒に飲もうって生ぬるいお酒を組み交わしたっていう話も残っております。
寺橋さんがすごいのはこっからなんですよさっきお話ししました連合艦隊から来られて大和以下第2艦隊に命令がありましたね。あの時に会議室で大激怒になったその時の反対の一人が寺内さんだったらしいんですけれども、それが解散というか?決定して明日15時から突っ込むってことが決定して雪風に戻ってきたい。
そして全乗組員を集合。
って言って露天看板に上がらせてで言ったのがこれなんですよ。
ただいまこういう命令が下ったから明日人号丸々順次出港するから今から可燃物を下ろせ。
どうのこうのってなったんですが、いいか言っておくが私はこの特攻に反対だ。
って言ってたんですってこれはですね、命令違反です。
すごいですね言っちゃったんですよ。
ただしこれ後でからくりがあるんですが特攻に反対だ、だから絶対に貴様たちは遺書を書いてはならん。そして遺品も残してはならんぞ、わかったか、って来たんだそうです。でみんな押し黙ったって。えってだってもう艦長が大和に呼ばれた時点で、ああもう最後なんだなっていうのはみんなわかってたそうです。
だって飛行機でもどんどんどんどん突っ込んでる時でしたからこんなの当たり前だとそれとですね。
すごい話がこれ本当ですよ今言ってるのはあのですねこれ煙突にあれご存知の方いらっしゃいますか?
菊水の門所これね。
楠木正重が後醍醐天皇を守るために。
突っ込んでいって亡くなりましたね。特攻なんですよあれの門所を煙突に描けって第二艦隊から命令があったんですって。だから大和もみんなあれ書いてるんです。
白いペンキでね。ところが雪風どうしたと思います皆さん。
なんとその命令が下ったら、寺内さんがその兵隊さんにこう言ったんですって。
ほっとけ。
私の船に菊水のマークは絶対に欠かせない。
私は部下を自殺させるような真似は決してしないって言ったんですって。
つまりみんな俺が連れて帰ってやる。絶対に人にも殺しはしない。
結局ですね命令違反ではないんですよ。突っ込むよと突っ込む。
けど、俺は無駄な死に方はさせない。死ぬまで生きろっていうことなんですよ。ここです。
皆さん死ぬために戦えじゃないんですよ。これが違うんですよ。考え方が死ぬまでもうダメだって思う時まで戦えっていうことだったんですね。
で駆逐艦はですね、これブリッジって言うんですがここに寺内さんいるんですけど防空戦闘って言って。飛行機との戦いの時にはここの屋根にですね。
ハッチなんですがそれを開けて胸から上を上に出して、鉄かぶとかぶって鉄器がこっちから来て、多分あの地点で爆弾放つからこうやって避けるっていうのを、とにかく先を読んで避けていくんですね。
船っていうのはあそこに寺内さん首を出しました。すると部下がその帽子ではあれですから鉄かぶとをおかぶりくださいと渡そうとしたら、そんなまだろっこしいものは俺はすかん。これでいいんだ相手ですねあの帽子を唾があるでしょ後ろにしてですね。
ガキ大将みたいにしてこうやってくわえタバコしてで式を取ったんですって。で面白いのがね通りか思うかってありますね。
ちょうど立ったところの正面に足の足元にですね。
水平さんがダリンって分かります?ハンドルあれを持った水平さんがいるんです。
相談員って言うんですよその人のね。
肩左を勝ったら左に曲がれ右を蹴ったら右に曲がれ。
こういう命令したんだそうですそれで行くからな。
なぜか分かりますか戦闘中はですね。うるさいんですよやかましいんです通りかーじって言ってもはいとか言ってたらもう遅いんですよ一個からそういうわけです。
したがって絶対聞き漏らしがないように左に曲がりたい時はお前の左肩蹴るから通り。
かーじって思うかーじってやって全部避けたんですよすごいと思いません?こういう豪傑がいらっしゃったんです。
寺吉さんも生きて帰られまして、72歳だったかな?でお亡くなりになられました。
じゃあこの話の最後はこちら、お話しして終わりたいと思います。
第二艦隊司令長官のトップですね。伊藤誠一さん。54歳ですね。大変な愛妻家で有名だったんだそうです。
奥様に残された遺書が抜粋がこれなんです。
親愛なるお前様に孔子を託して何事の憂いなきはこの上もなき幸せと忠心より感謝いたし候いとしき最愛の千歳殿
こんな綺麗なね奥さんたまらんかとろな思うんですがこんな詩のような価値を遺書を書かれて伊藤さんの最後を見た方も僕お会いしました。
ブリッジがこんなに傾いて上から防空敷所からアルガ艦長が降りてこられてそして長官のところへ行って長官もうよろしいかと思いますって言ったんですって。もうこれ以上は戦えんっていうことですな。すると長官がご苦労様残念だったねっておっしゃったんだそうです。それで伊藤誠一長官が白手袋を外してアルガ艦長とガンガッてやったんです。握手してじーっと2人ともしばらく無言で握手してたそれで握手をやめてもう1回白手袋して生き残ってたブリッジのみんな水平さんにもすごい綺麗な挙手の例だったみんなにやって周りにつかみながら環境の後ろにあるドアを出て司令長官室に入り中から鍵をかけられたそうです。お分かりですか。これですね。
で司令長官なられてからずっとお付きだった副官いうのがあるんですよ。これあのセクレタリーみたいなもんですなこの方が出て行かれるときに自分も後を追おうと思ったんでしょうね。一緒にお供いたしますということですよ。行こうとした時に森下さんっていうこの政調官の一つ下の参謀長です。この方がですねバッツってこの副官のベルトをわっって掴んでなんと片手一本で引き倒したんですって。デッキにバーンって。で貴様はいかんでいいバカな奴だって言ったら副官がもう泣いて泣いて。で副官もボンシタさんも生きて帰られました。
はい、以上がですね大和と雪風のお話でございました。ご清聴誠にありがとうございました。
えっとお手洗いとかはよろしいですかいかがでしょうか。はい、この後よろしいですか。では続けさせていただきます。ありがとうございます。いやー熱心に聞いていただいて恐れ入ります。
それではですねちょっと手前味噌なんですが私の大叔父が経験した特攻隊の、これは実はですで大叔父がですね、なぜか僕が孫の代8人いるんですけど。なぜか私だけですね。はい、小代君、ちょっと家へ来なさい、言ってですね。
僕、自転車で大叔父の家へ行って、泣きながら今からお話しすることをですね、泣きながらのお話を聞かされてたんです。
なんで私だったのかな、思うんですけど。
で、私がなんだかんだ会って、jalから帰ってきて、大叔父のカバン持ちをしたことがあるんですね。
で、その時に行く先は、だいたい講演会なんです。
今日お話しするお話をもうそらんじちゃったさて、コア色とか仕草とか?
内容はもちろん、それを今日は皆様にご案内いたしますが、大叔父が必ず講演会の冒頭に言っていたことがあるんです。
それは今からお話しするお話で、はぁはぁ特攻隊はそういうものかと絶対に思わないでいただきたいと言ってました。
一緒に生きて帰った戦友も、10人といろ特攻というものに対して微妙に。
この判断が、評価が違うんだそうです。
極端に言うと素晴らしい攻撃。
だったっていう人もいればゲドーのもゲドーあんなことしちゃいかんっていう人もいたし微妙に違ったから。
ぜひこれは当時海軍中尉将尉だった自分が経験した話だったということでお聞きくださいと言われておりましたでは参りますもうご存知ですねこれね新風って僕さっき言いましたがどちらでもええそうですが当時はですね新風って呼ばれてたんですって読売新聞だったかな。
最初に報道したのが新聞の横に新風って書いてあったんだそうです。
じゃあどういうものか?
言うとこれですなちょっとショッキングな動画です。
これはアメリカ海軍が映した実録です。
燃え盛りながらも突っ込んでいって命中していますね。
あれ一人の男が乗ってるんですよね。これを新風特別攻撃隊と言っていたんですがその隊員だった大叔父の話です。
大正11年に生まれましたそして呉で生まれ呉で育ち。
大学に行かせてくれたってすごく喜んでました当時大学に行くのは今でいう高校生からは2%3%の時代です。
本当によく行かせてくれたって言ってましたがところが戦局が怪しくなり昭和18年の12月に学徒出陣。
神宮外苑雨の中行進する。
あれですなあれでもって海軍へ入隊そしてパイロットになりましたが当時もうこの時のパイロットは特攻隊要員だったわけでございますでもちょっといろいろあって出撃遅れ助かってですね。
94歳で亡くなりましたが戦友の8割は戦死しておりますので94で死ぬまで自分のことを死に損ないと生き残りじゃない死に損ないって呼んでましたで大叔父なんですが学生から士官さんになった学生隊というものに所属いたしまして毎日可烈なる訓練に励んでいたそうですが夜はなぜかですね。
自治が認められまして小島ラッパから気象ラッパまで完全なる自由時間が確保されたんですこれ大変稀なケースだったみたいです。
さて皆さんお尋ねします若い男です。
一晩何やってもいいんです毎晩何やってもいいんです。
何してますか?
私はちょっと女性がいる前でごめんなさいね和え団とか恋花とかあとは酒そして掛け言何されてたのかなって思ったら。
なんと?
まあ私はこれびっくりしましたなんとですね毎晩ですよ。
反戦論を繰り広げてたんですってなぜか?
というとインテリなんすよ。
やっぱりものすごく勉強してるんですよこんなことだから対極的にものを見れるんですよなだから誰がこんなくだらない戦を始めやがったんだ。
直ちにこの戦を終わらせないと大変なことになるではどうやったら戦を終わらせることができるだろう。
講和の条件はどうする?
で大叔父言ってましたやっぱあの東京帝国大学ってのは半端なかったってうん。
私が勉強した国際法によるとなこうこうこういうくだりがあるから。
この点は講話の条件に入れた方がいいとかね。
みんなで聞いてたってでも一つだけ言えることがある。
東大であろうが京大であろうが卓色大であろうが何であろうが生半可の意見は相手にされんかったもう男と男のね。
火花の散るような議論をやってどうやって戦いを終わらせるか?
っていうことを毎晩やっていたって言ってましたそして絶対に死んでてもらうか?
俺はなもうお袋しかいねえんだあの袋泣かせるわけないから入らなきゃいけないんだよとかそういうことをみんな言っていたんですね。
そうこうしていた大叔父たちだったんですが日に日にですね。
その学生体の空気が変わっていったんだそうです。
それはおい聞いたか丸々大学のあいつ戦死したってあそうか?
これが一人一人増えていくんですよでもものすごい。
急激にどんどん増えていくんだそうですで、みんなの雰囲気が変わっていった。
そしてある日のこと、いつもの反戦論の途中、東京帝国大学の専用がこう言ったんですって。
おい、ちょっと待ってくれ。
俺たちは何のために今を生き、そして何のために死んでいくんだろう。
こう言ったんですって。
俺たちは毎晩こうして愚痴ばっかり、好き勝手なこと。
ばっかり言っている。
しかし、こういう今も。
現実に戦いは続いている。
ましてや戦友は戦死しているかもしれない。
それなのに俺たちはこんなことでいいのかと。
あまりにも無責任じゃねえのかって来たんだそうです。
そこで議論がいろんな議論があって反戦論からこの議論に変わっ。
たんだそうですたまたまなんだけど本当にたまたまなんだけどこの時代にこの国に生まれた若い男としての役割それは何かって?
それは愚痴を言うことじゃないだろう。
この戦いが正しいとか間違ってるとか損だとか得だとかもうそんなことはどうでもいい。
俺たちが爆弾を抱いて突っ込んでいくことを。
国民は望んでいるんじゃないのかとやらなければならないことはこれなんじゃないのかってなったんだそうです。
それで大叔父たちはよしやってやろうじゃないかってなっ。
たんだそうです結局ですね、大叔父曰くですよ。
2。
つだけだったって。
1つはこれ。
自分たちの役割を果たそうじゃないか?
っていう義務感。
もう1つは、俺たちがやらないで誰がやるんだ。
っていうこの責任感。
本当にこの2つだったって言ってました。
今の時代では特攻隊員は洗脳されていたとか、いろいろ好きかって言われておりますが、少なくとも大叔父たちのいた240人の部隊は全くそうじゃなかった。
みんな反洗脳者だったんです。
ところがこんなに変わっていったのは洗脳ではない。
やるべし。
そうだよって。
で、結論はちょっと、もうちょっと先に伸ばします。
大叔父がですね、94で死ぬまで、私に言っていた言葉があるのでそれをお伝えしますね。
どうか?
私たち戦友のことを忘れないでいただきたいそしてできれ。
ば本当に一言でいいからご苦労さんよく頑張りましたねありがとうってどうか?
声をかけてもらいたいってでね。
さっき結論は何かっていうことこれですねこれなんですよあの永遠のゼロっていう?
映画ご覧になりましたか?小説読まれましたか?あれ見られた方永遠のゼロ。
あれさあご覧になりました。
あれさあご覧になった方結論出てないの気づかれました?何のためにあの主役のあの俳優さんに立って。
最後笑って突っ込んでいったんですかね。
あれ実は百田尚貴さんうちの大叔父に何度もくれにこらえて。
取材されたんです。
まああのこれを言ったんですってすると。
百田さん大いに泣かれてそれだったんですね。
わかりましたってでも百田さんあれ映画の中で答え言わんかったんです。
それは今の日本人に考えてほしかったからって答えはこれなんです。
平和な時代を取り戻したかったんですってなんとですね。
飛行機に乗る直前こんなことを大叔父に言って乗ってった人もいるんですよ。
おい俺たちが突っ込んでいくことが平和につながるんだよなこんなことを言って突っ込んでいってくださった方々もおられたまあこのことはですね。
忘れちゃいけないだからよく大叔父言ってい。
たのは戦争反対平和が一番。
そんなことだけをこわだかに言われるととても違和。
感感じるって言ってましたあんたりまえじゃないか?
こんなこととそうじゃないだったらどうしたらいいのどうすべきだったのか俺たちも遅かったって言ってまし。
た昭和16年12月8日日米海戦になった時によーしってみんなで拳振り上げたって言ってまし。
たあの一橋大学の大叔父一橋だったんですけどあの行動で金松行動でしたっけみんなで拳振り上げたって言ってました何やってたんだ何も考えてなかったでも皆さん。
今の日本人本当の平和を守るために考えているんでしょうか?
私たちどうでしょう?
それは軍備を増強することなのか。
外交をもっと強力にすることなのか何なのかそれ考えてますかね。
そこんとこちょっととても考えなきゃいけないのではないかなと思うわけでございます平和を守るためにどうすればいいのか?
大叔父はこう言ってました興味を持つことそして考えること。
これをやめたらおしまいだって言っていましたいや僕思ったんです。
今回のウクライナの問題ね大叔父が生きてたらなんて言ったかななんか聞こえてきそうです。
10年前クリミア半島を明け渡すべき。
じゃなかったんじゃねえかとかなんかそんな感じがしますがね。
はい、じゃあ最後5分はこれやって終わります。
あの、崩壊感のお話です。
これは、あの、クレーンの潜水艦基地。
前にあります、アレーカラス小島公園の動画なんですが、この前に赤レンガ倉庫群がございます。
その向かって一番右のこの建物で、私たち事業を営んでいるんですが、ご覧の通りですね、世界で一番こんな近くに潜水艦をこんな高さで見れる。
民間の施設はもうここしかありません潜水艦というのはあんまり上から見られたくないんですよね。
125年前これ明治33年に海軍が建て。
た倉庫だったんですね。
日本遺産にこちらなりました大乃木グループの会社の一つ、クレボー倉庫運輸というのがここで倉庫業をいただいておりますが、もともと大倉商さんから、倉庫業として使う。
んだったら使わせちゃっていいで言われて、そういうならばという契約だったんですね。
ところが20年後くらい。
前に、もう当時財務省になったと思うんですが、買ってくれ言われました。
これ全部、破格値で買わせていただいたんです。
だから何でもできることになった。
だから私はこれやりたかったんです。
それはなぜかは最後に申します。
じゃあ法廃官ってどういう意味?
これはですね勢いがある様のことを言うんだそうです今もう死後ですなほら東映の映画の最初ザバーンってなるじゃないですか?
あれね法廃って言うんですってでもう一つ。
現在の海上自衛隊幹部構成学校昔の海兵ですね。
あそこの法廃をする海原のっていう相性感があるんです。
効果がなかったんですこの学校だからこれがね効果代わりに使われてい。
た最初の出だしが崩壊なんですね。
それで本当の意味はこれなんです。
大水害にあったんですね。
7年前の7月でうちの会社も被害を受けまし。
たその2ヶ月後にオープンを控えてたんですだからオープン延期したらどうかっていう?
意見があったんですが私がですね。
なんか単価切っちゃっていやいや逆でしょと。
今クレシがこうなっ。
たから法廃官から勢いを巻き起こし。
たいんです。
って言っちゃったんですよ。
それで名前も法廃官にしたとこれ実は違う。
名前がつくはずだったんです何やってるのかっていうと。
海上自衛隊と旧海軍の資料展示。
やってますそれから男たちの大和っていう。
映画で使われていたロケセットこれ三連???機銃って言うんですけどこれも大和ミュージアムさんから対応。
されて今展示していますそれから現役潜水艦のですね、試管室のベンチも、これもここで座らないと、本物の送流型に行かないと座れないよっていうおふれでですね、座っていただいております。
それからうちの会社、船の修理だとか内装。
もさせていただいているので、ちゃちゃっと作りました。
こうやってね、地取って、おい見てくれ、この前俺サミダレ乗ったんだよって言ったらバレません。
これですね、ほんとそっくり、もうだってうちこういうの作ってるんで。
それから売店もございます。
さてじゃあどうしてこれやったのっていうお話を。
あと1分で終わらします崩壊感の思いといたしました僕2つのミッションが発生したと思ったから事業をやったんです一つ目旧海軍が残した貴重な遺産なんですね明治33年建物そしてこんなロケーションないんですこれをですねうちの儲けだけのために使っとったら罰が出ると思ったんですそうでしょうちしかできんことですこれ世界でしたがって公に生かしていくミッションが発生したと思いました公に生かしていかなきゃいけないそして2つ目ご存知ですかこれ日清戦争以来呉を出て行ってボーフレーって儀式今もやってますけどこれで亡くなった方僕の計算だと13000人は下りませんただね潜水艦とか飛行機乗りとか輸送艦とかわからんのですよよって13000人はもう僕は絶対だと思ってますがその方々の気持ちそして今は海上自衛隊の方々がそれをやってくださってあそこから尖閣守りに行ってくださってるんですえですか船に寄るとね遺書残して帰っていくんですよ奥様にそういうのねこれ報道されてないんですよそんぐらいのことはね僕言うべきだと思うんですがこの史実と事実をくれに来られたお客様にお気づきいただくお伝えするミッションが発生しているかもしれないだから今日皆様のお手元に私府省大野木がですねお話イベントと称して今ご覧になってご存知のお話いくつあられますか今の日本人教えられてないんですでそれをですねさせていただくということをやっています最後にこれはですね、崩壊感の気持ちと称しまして、お買い物をいただいた方全員にこんなカードをお配りしています。
それはこれを書いてあるんです。
日清戦争から先の大戦終結まで、呉を出ていって亡くなった方、なんと1人を超える。
その方々が最後に踏んだ。
血が呉だった。
どんな思いで呉を出ていったのか。
その方々は全てを守るために神明を捧げられて、くださったから。
今の私たちがあり今の日本があるのは事実であります。
現在では海上自衛隊の方々がそれを受け継いでくださっているその個々の方々に思いを寄せ心からの感謝を捧げる。
ことが大事じゃないんじゃないのかなということを訴えているわけでございまし。
た少々ちょっとオーバーいたしましたけれども以上で終わらせていただきます。最後までご清聴誠にありがとうございました大野記者長ありがとうございました素晴らしいお話をしていただきましてあっという間の1時間でしたもう一度大きな拍手をお願いいたします。

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