広島の街に賑わいを、若者に夢を。
――広島電鉄における改革の歩みと、これからの街づくり――
失礼いたします。皆様の貴重なお時間をいただくほどの内容ではないかもしれませんが、先ほどからの会長や諸先生方のお話をお聞きして、私の歩んできた道とは少し違う、非常にしっかりとしたお話で気圧される思いです。本題に入る前に、私がどのような生き方をしてきたのか、少しお話しさせてください。
私は昭和21年11月、まさに戦後の混乱期に生まれました。親父が一生懸命、派遣(外地)から帰ってきてできた子です。食べるものにも事欠く時代で、学校の先生からは「お前たちは芋の蔓(つる)ばかり食べて育ったんだから、頭が良くなるわけがない」とまで言われていました。私はそれを聞いて、「そうだろうな」と自分で納得して育ったのですが、その代わり、正直に申し上げて、全く人の話を聞かない人間になってしまいました。自分が「こうしたい」と思ったら、それに向かって一生懸命に取り組む。遊ぶ仲間も、本当に仲の良い4、5人だけで固まっているような子供でした。
皆様によく誤解されるのですが、私は実は非常に気が小さい「弱虫」なんです。子供の頃、いつもの仲間と遊んでいた時、その地区のガキ大将が、私の友達の大切なおもちゃを奪おうとしました。それはせっかくの誕生日に親に買ってもらったおもちゃだったんです。「返してくれ」と言えば、生意気だと言って殴られるのは分かっていました。しかし、殴られるぐらいならいっそ突っ込んでやろうと思い、体当たりしたんです。私は昔からズングリとした体型で、相撲や腕相撲だけは強かった。一気に投げ飛ばして、殴られそうになるのを両手で抑え込みました。
そのまま10分間ほど抑えつけていたら、そのガキ大将が砂の地面で動いたからでしょうね、擦り傷がついて泣き出してしまったんです。子供の世界というのは厳しいもので、私がそのガキ大将を泣かせたという話が広まると、一週間後には4、5人だった友達が一気に30人、40人と増えました。一方で、あのガキ大将の周りからは誰もいなくなってしまった。
その噂は広がり、近所の大人たちからも「りょうたには手を出すなよ、あいつは怖いぞ」と言われるようになりました。でも、本人はものすごく弱虫だから、本当は怖いんです。ただ、何もせずとも周りから頼られるようになってしまいました。そんな私に、親父はこう言いました。「お前は弱虫で気が小さいんだから、とにかく『水戸黄門』の真似をしろ。猫を被るなら最後まで被り通せ。そうすれば、それがいつの間にか本物になるぞ」と。ですから、私は人に頼られたら怖いながらも「どうした?」と猫を被って応じ、相手がビビってくれればそれで終わり、という生き方をしてきました。それ以来、喧嘩もしたことがありませんが、周りからは「あいつはガキ大将を倒したすごい奴だ」と思われ続けてきたのです。
挫折と「運」に導かれた青春時代
高校では柔道部に入りました。1年生の夏頃だったと思います。理由は単純で、小学校からの親友が「体格がいいから一緒に柔道部に入ってくれ」と頼んできたからです。当時の広島高(広高)の柔道部は非常に弱くて、五校戦の3軍にすら手も足も出ない状況でした。そんな部に入って3ヶ月で、私はなぜかレギュラーになってしまいました。技も何も知らないのですが、力だけは強かったので、団体戦で唯一負けない、つまり「引き分け」に持ち込む役割を任されたのです。チームが全敗する中で私だけが引き分け。そのうちに、いつの間にかチームの中心になっていました。
それまでは少人数でしか遊ばなかった私が、団体で汗を流す楽しさを覚えたのはこの時です。仲間と一緒に目標に向かう喜びを、柔道から教わりました。
大学進学に際しては、親に「国立しか受けない」という約束で一浪させてもらいました。当時の担任からは「この子は放っておしたらいつまでも勉強しませんから、一度厳しい体験をさせてやってください」と言われ、1ヶ月間だけ死ぬ気で勉強しました。そうしたら不思議なことに、当時の広島大学の一期校試験に通ってしまったんです。親父からは「広島の大学なら下宿代もいらんし、家から通うなら小遣いも多めにやってやる」と言われ、すぐさま手を打ちました。「やった、小遣いが増えるぞ」という、そんな不純な動機での入学でした。
大学時代も自由な時代で、出席も今ほど厳しくありませんでした。試験の時だけシャツ一枚で会場に行って、「あ、あれが先生か」なんて言いながら卒業したようなものです。実は、私は色弱がありましてね。当時は理系への進学が制限されていました。本当は『お茶の水博士』に憧れて理系の道に行きたかったのですが、目的を失ってしまい、「社会人になるならどこでもええや、とにかく働ければ」という投げやりな気持ちもありました。そんな時、母親から「広電(広島電鉄)なら地元のいい会社だから、そこに入ってくれ」と言われ、入社を決めました。
「二つの組合」との闘い、そして一本化へ
ところが、入社して驚きました。当時の広電は、毎年ストライキをするような荒れた会社だったんです。私は入社2年目から労使交渉の担当になりました。現場の声を聴き、改善案を上司に持っていくのですが、「バカ、そんなことをしたら組合の原理原則に反する」と撥ね付けられる。自分なりに一生懸命考えて提案しても、「お前は経験がないから分からんのだ、そんなことをすれば人と当たるぞ」と、会社側の都合ばかりを押し付けられる。正直なところ、「この会社は潰れるな」と思いました。
他社への転職も考えました。大学の先輩から「うちに来い、給料を1.5倍、いや2倍出す。お前は現場監督に向いている」と誘われたこともあります。しかし、母親の顔が浮かびました。私は兄を早くに亡くしており、祖母からも「この子だけは死なせるな、守ってやれ」と言われて育てられた世間知らずです。親の決めたルールは守らなくとも、自分が決めたルールだけは守る。そう決めて、広電に残ることにしました。
当時の広電には二つの大きな組合がありました。職場ではお互いに足の引っ張り合いをして、相手のミスを見つけてはポイントを稼ごうとするような、ギスギスした雰囲気でした。私は、当時の社長に夜中にこっそり会いに行きました。「期待に沿えないかもしれませんが、私は組合を一つにしたい。そうでなければ会社は持ちません」と直談判したのです。社長は「やっぱりそうか、わしもそれを待っとったんだ。やってくれ」と言ってくれました。
1950年に分裂した組合を一つにするのに、10年以上の歳月がかかりました。平成5年に連合(日本労働組合総連合会)ができた頃、私も勝負をかけました。会社の幹部は「同盟系」を応援していましたが、私はあえて「総評系」に肩入れしました。理由は、総評系の方が「組合を一つにしたい」という思想が強かったからです。同盟系は「会社に寄り添って、良い条件さえもらえればいい」というスタンスで、これでは真の統合は無理だと判断しました。
私は総評系の幹部に言いました。「あんたの目的と私の目的は違う。しかし、会社を良くしたいという思いは共通のはずだ。まずは一つになろう。一つになった後で、本気で私と喧嘩しようじゃないか」と。自分を信じて突き進むうちに、周りからも「あいつは変わっているが、言ったことは必ずやり遂げる」という信頼が芽生えてきました。
最初は1500人と600人という勢力図でしたが、ある時、一気に現場の管理職や卒(リーダー層)を200名近く入れ替え、勢力を逆転させました。半分は脅しのような強引な手法もありましたが、そうやって組合を一本化したのです。会社の上層部からは「あいつは危うい奴だ」と思われ、下からは「出世のために俺たちを利用した」とアンチも生まれました。しかし、それで良かったのです。過去のしがらみに囚われず、「将来どうあるべきか」という理屈が通れば、必ず賛成してくれる人は増えるのです。
私が課長になった時も、「課長にすれば組合活動を抑えられるだろう」という会社の計算があったのでしょう。私は「いいですよ、課長になってあげましょう」という強気な態度で引き受けました。弱虫だったはずの私が、いつの間にか「猫」を被り続けるうちに、自分でも小物なのか大物なのか分からなくなるほどの錯覚を抱くようになっていたのです。
「潰し屋」としての再建と、65歳定年制への挑戦
私はその後、数々の子会社整理を任されました。採算の取れないホテルや施設を閉鎖し、「潰し屋」と呼ばれました。広電タクシーを売却した後には、「広電ストアを立て直せ」と命じられました。当時の社員たちは「次は自分の番か」と戦々恐々としていました。
ストアに行ってみると、本社からの役員や部長・課長が居座っていました。私は彼らに「申し訳ないが、全員辞めてください」と言いました。そして、「今から厳しいことをやるが、部長や課長をやってみたい奴は手を挙げろ」と募ったのです。結局、残ったのは数名でしたが、あとはやる気のある若手が手を挙げました。
さらに、部門を絞り込みました。スーパーマーケットとはいえ、衣料品などは専門知識が必要でアルバイトでは務まりません。しかし、食品なら徹底した管理で勝負できる。そう判断して、食品に特化した体制に切り替えました。その結果、数十年にわたって赤字だった会社が、営業黒字目前まで回復したのです。その時、当時の社長(私より6歳若かったのですが)から「本社に帰ってこい」と言われましたが、私は断りました。「本社に帰ったらあんたの部下だが、ここなら私は大将だ。帰りたくない」と言ってね(笑)。結局、「代表権をやるから」と言われて本社に戻ることになりました。
本社に戻ってからは、バス事業の再建に取り組みました。当時は人件費を抑えるために、正社員を減らし、非正規の臨時社員を増やしていました。しかし、臨時社員は10年働いても給料が上がらず、退職金もありません。いわゆる「ワーキングプア」の状態です。一方で、バブル期に高いベースアップを経験したベテラン正社員は非常に高い給料をもらっている。この格差が、社内の大きな不安の火種になっていました。
「このままでは選挙をすれば勢力が逆転し、正社員の条件も引き下げられるぞ。そうなる前に、みんなで条件を変えようじゃないか」
そう組合に提案しました。ベテランの昇給を抑え、その原資を若い層や非正規層に回す。そして、定年を65歳に延ばしました。それまでは57歳で退職金が出ていましたが、それを65歳までの積み立て方式に変えました。「今もらう分は少ないかもしれないが、生涯賃金は必ず高くなる」と説得したのです。
また、5年間退職金を支払わなくて済む期間を利用して、退職金の引き当て不足を全て解消しました。平成21年の秋、ようやくこの制度が妥結しました。これにより、将来に不安を感じていた若手社員たちが、一斉に家を買う契約を結んだのです。会社にとっても、社員にとっても、これ以上の喜びはありませんでした。
広島駅前大通りへの路面電車乗り入れという「夢」
さて、いよいよ公共交通の話になります。今の広島電鉄は「ワクワクを創造する」というパーパスを掲げていますが、私が入社した頃の評価は散々なものでした。「ボロ電」「ケチ電」、挙句の果てにストライキばかり。そんな会社が、どうすれば地元に貢献し、市民に愛されるようになるのか。
私は、自分の仕事の中に「楽しさ」を見つけたいと思いました。そこで目をつけたのが、広島の街づくりです。当時、広島に地下鉄を作るという話が出ていました。しかし、広島の地盤は砂地で、地下を掘るには莫大なコストがかかります。また、駅の間隔が1キロ程度必要ですが、広島の街は狭い。駅を出て数駅で、もう街の外に出てしまいます。
「それなら、路面電車をより便利にすればいいじゃないか」
私は、西広島(己斐)から平和大通りを通って広島駅まで、一直線に線路を通す案を作りました。当時は被爆団体の方々から「平和の象徴である通りに電車を通すとは何事か」と反対され、断念せざるを得ませんでした。しかし、稲荷町から駅前大通りをまっすぐ通したいという願いだけは、ずっと持ち続けてきました。
14年前に私が社長になった時、ある決意をしました。当時、JR西日本さんとはあまり仲が良くありませんでした。しかし、お酒を飲みながら話をすると、意外と話が通じるものです。「あんた、前の社長と仲が悪かったらしいが、それは誤解だ」なんて話から始まって、年に数回、定期的に飲むようになりました。
「広島さん、駅ビルを新しくする話があるんだ。2階に電車を入れてくれないか」
JRさんからそう提案された時、私は二つの条件を出しました。一つは「駅のホームを広げさせてくれること」、もう一つは「奥までしっかり入れさせてくれること」。これさえ飲んでくれるなら、一緒にやりましょうと。JRの社長も「分かった、本社に確認する」と言ってくれ、1、2ヶ月のうちに合意に至りました。それを見た広島市も驚いて、「あんたら、仲が悪かったのにどうしたんだ」と。そこから一気に、駅前大通りへの乗り入れ話が具体化したのです。
しかし、その途中でコロナ禍が襲ってきました。JRさんも新幹線の利用がゼロになり、ローカル線も止まり、大赤字です。広電も年間400億あった収入が、数年で半分近くまで減りました。周囲からは「工事を止めるべきだ」という声もありましたが、私は「予定通り続ける」と断言しました。
実は、子会社を売却したり、定年延長で浮いた資金を積み立てたりしていたおかげで、キャッシュには余裕があったのです。560億円という巨額投資ですが、補助金を除けば実質の持ち出しは30億程度。金融機関からは「金を借りてくれ」と言われましたが、「返せなくなると嫌だから」と断り、自己資金と資産売却で乗り切りました。コロナ禍の最中に建物を一部売却して黒字を確保したのも、このプロジェクトを完遂させるためです。
日本初、世界でも稀な「ビルの2階へ直接乗り入れる路面電車」。来年の春、ようやくそれが完成します。材料不足やサミット期間中の工事停止など、苦労は絶えませんでした。しかし、完成すれば、広島の街は劇的に変わります。私は「新しい施設には新しい社長で」と考え、一足先に社長を退きましたが、この工事が遅滞なく進んだことは私の誇りです。
地元への貢献と「3C」の精神
私が最も感謝しているのは、地元の方々です。私は10数年前から社員に「地元のイベントには必ず参加しろ、頼まれたら断るな」と言い続けてきました。昔は宮島地区でも広電の評判は良くありませんでしたが、今では「何かあったら広電に言え、あそこは必ず動いてくれる」と言っていただけるようになりました。
工事のために車線を潰した時も、苦情が殺到することを覚悟していましたが、実際には1件もありませんでした。これほどありがたいことはありません。地元を信じ、地元に貢献することこそが、我々の使命なのです。
経営においては、先ほども申した「3C(Challenge, Chance, Change)」を徹底しました。特に「Change(変化)」です。今までが良かったのなら変える必要はありませんが、現状が良くないのであれば、変わる勇気を持たなければならない。
私はトップとして、部下たちがチャレンジできる環境を整えることに腐心しました。決済の事前調整は一切不要。「これをやりたい」という熱意があれば、360度反対でない限りは「やってみろ」と背中を押します。失敗しても責任は私が取る。ただし、嘘をつくことと、事実を隠すことだけは許しません。
若者が夢を見られる「未来の広島」へ
今、広島電鉄では女性の活躍推進にも力を入れています。公共交通は長らく男性社会でしたが、女性の視点を取り入れなければ本当の意味でのサービス向上は望めません。最初は「あれが不満、これが不満」という声ばかりでしたが、3年経つと、若手男性社員も交えて自分たちで問題を解決しようとする動きが出てきました。その成果の一つが、社内保育園の設置です。結婚や出産で優秀なガイドさんが辞めてしまうのは、会社にとって大きな損失です。働きやすい環境を整えることで、仲良く、助け合える組織になれるのです。
また、広島市内の「賑わい」作りにも取り組んでいます。2016年に経済同友会の委員長を引き受けてから、県・市・商工会議所・民間企業が連携する「広島都市会議」を作りました。民間の知恵と行政の力を合わせて、街の回遊性を高める。そのために、若手の管理職を集めて毎年研修を行い、「自分たちが何をしたいか」を語ってもらっています。
平和大通りの活性化や、西広島の地下街の再生。AIオンデマンド交通の実証実験。これらは全て、若者が夢を持ち、挑戦できる場を作るための種まきです。「キッチンカーを並べたい」「ビールを楽しめる場所にしたい」――そんな些細な夢でもいい。それを実現するために、大人たちが知恵を貸し、ルールを調整する。
広島駅ビルの完成は、ゴールではありません。そこを起点に、どうやって街全体を面白くしていくか。4分、5分の時間短縮も大事ですが、それ以上に「電車に乗るのが楽しい」「広島の街に出るのがワクワクする」と思ってもらえることが重要です。
結びに
最後になりますが、私は母親から「念ずれば通ずる」と教わりました。そして親父からは「猫を被り通せ」と教わりました。夢はただ見るものではありません。一歩一歩、信頼できる仲間を作り、信頼できる上司を見つけ、自らの手で「作る」ものです。
広島電鉄が元気になり、広島が面白い街になれば、必ず若者が戻ってきます。住みたい、働きたいと思う街になります。私はこれからも、この愛する広島のために、一歩引いた立場からではありますが、応援し続けていきたいと思っております。
話が長くなり、また取り留めのない内容になってしまいましたが、最後までお聞きいただき、誠にありがとうございました。今後とも、広島電鉄、そして広島の街をよろしくお願い申し上げます。





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